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2009年04月 アーカイブ

2009年04月01日

カラスビシャク

カラスビシャク(烏柄杓)とは、サトイモ科の植物の一種。学名:Pinellia ternata。 。

特徴 [編集]
葉は長い葉柄があって立ち上がり、先端に3枚の小葉を着ける。葉柄の中ほどにはムカゴを着ける。

開花期は初夏。テンナンショウ属のものによく似た花で、緑色。付属体の先端が細長く伸びているので、ウラシマソウを小さくしたような花序の姿である。ただしこの属の特徴として雌花序部が背面で仏炎包に癒合しているので、筒部の下半分がやや細くなって見える。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

生育環境 [編集]
山地の道端や畑地に自生する多年生草本で、畑では雑草になる

利用 [編集]
コルク層を除いた塊茎は、半夏(はんげ)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他に、サポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。 なお、乾燥させず生の状態では、蓚酸カルシウムを含んでおり食用は不可能。

カラスビシャクが生える7月2日ごろが半夏生という雑節になっている。

北アメリカの一部では、侵略的外来種として問題視されている。

2009年04月16日

モンケ(Möngke)

モンケ(Möngke, 1208年 - 1259年 在位1251年 - 1259年)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では mankū qā'ānまたはmūngke qā'ān 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓肅皇帝[1]。モンケという名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその夫人ソルカクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。

生涯 [編集]

即位以前 [編集]
若い頃から資質に優れ、父のトルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収めた。1232年、父の死によりトルイ家の当主となる。

1235年第2代モンゴル皇帝・オゴデイは、カラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。そのひとつとしてジョチ家の当主バトゥを総司令としてヨーロッパ遠征が決議され、チンギス・カン家の各王家から次期当主クラスの王族達を選抜してこれに従軍させることとなった。モンケもトルイ家当主として異母弟のボチェク(トルイの七男)とともに従軍した。1236年に遠征が開始され、モンケは遠征軍の総司令官となったバトゥに従って、まずヴォルガ・ブルガール地方に侵入して首都ブルガールを諸将筆頭のスベエデイとともに征服し、ついで翌1237年にはボチェクとともにキプチャク諸部族の首長バチュマンを追い詰めて捕殺する武功をあげた。1238年にはカフカス方面に下ってオゴデイ家の六男カダアン・オグルとともにアラン人(アス人)たちの諸城の制圧に勤め、またルーシ諸国征服においてはキエフ攻略で戦功を挙げた。『元朝秘史』などによると、この遠征中の宴席でオゴデイの長男グユクとチャガタイ家の王子ブリが、総司令であるバトゥと諍い面罵したといい、バトゥからこの報告を受けたオゴデイは激怒してグユクらを厳罰に処すためモンゴル本土へ召還するよう命じたと伝えられる。『集史』によるとブリは遠征軍に留め置かれたようだが、グユクは1239年の秋には軍を離れてモンゴル本土への帰還の途に着いたといい、モンケもこれに随伴したようで、遠征軍はそのまま西進してハンガリー王国、ポーランド王国への遠征を続行し、グユク、モンケ両人は翌年にはモンゴル高原に到着したという。しかし、この時既にオゴデイは死去していた。

もともと、祖父チンギス・ハーンの死後は、末子相続に従ってトルイがモンゴル皇帝(大ハーン)になるはずであったが、トルイが固辞したため、その息子であるモンケを新たな大ハーンとして擁立する約束があった。『集史』などによると、オゴデイは生前、1236年に南宋遠征中陣没した嫡出の三男クチュの遺児シレムンをオゴデイ家の後継者として決めていたという。そのため次期皇帝はこのシレムンかトルイ家の長男であるモンケを望んでいたと伝えられ、ソルコクタイ・ベキやモンケなどトルイ家の側にその旨内々に約束していたという。(ただし、この逸話はトルイ家が権力を掌握した後世の創作である可能性も指摘されている) それらの約束もあり、さらに智勇兼備の名将であったことから、周囲からもオゴデイの後を継ぐ皇帝に望まれた。

諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過 [編集]
1241年、オゴデイが死去したため、本来ならばシレムンかモンケが後を継ぐはずであったが、オゴデイの皇后であったドレゲネの政治工作でオゴデイとドレゲネの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなってしまった。ヨーロッパ遠征での総司令であったジョチ家の当主バトゥは遠征中の対立もあってドレゲネの工作とグユクの即位に反発し、摂政となったドレゲネからの再三のクリルタイ召集にも関わらず病気療養を理由に出席を拒み続けた。モンケもこれに不満を持つが、ドレゲネ生存中は雌伏し、同じくグユクの即位に不満を持つジョチ家のバトゥと手を結んだ。しかし、それから約5年もの間モンゴル帝国は大ハーンの空位と言う状態を招くことになり、帝国各地、特に辺境部では駐留軍の狼藉や現地責任者が勅令の偽造や軍令の濫発をくり返すなど混乱に陥っていた。この事態を重く見たトルイ家のソルコクタニ・ベキはドレゲネの要求に応じ、1246年春にクリルタイ開催を帝国全土に呼び掛けた。バトゥも自らの出席は病気を理由に拒んだものの長兄オルダや次弟ベルケなどジョチ家の有力王族たちをモンゴル本土へ派遣し、テムゲ・オッチギンら東方三王家やオゴデイ、チャガタイ、トルイ家の王族諸将に加え帝国各地の帰順諸政権の代表たちも列席して、同年8月のクリルタイでグユクが第3代皇帝(大ハーン)に即位した。

ドレゲネはグユクを見届けるとその二ヶ月後には病死した。グユクはオゴダイ、チャガタイ両家での自勢力の支持基盤を固めようと強引に当主位の改廃を行い、さらに甥のシレムンも遠ざけた。特に先年か反目していたジョチ家のバトゥとの対立が決定的となりあわや内戦になりかけたが、即位2年後の1248年にグユクも病死した。バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大の勢力を誇るジョチ家とトルイ家が共同して帝国の国政再建を計画してソルコクタニ・ベキと連携した。グユクの没した後その皇后オグルガイミシュが摂政となったが、バトゥはソルコクタニ・ベキやモンケ、クビライなどトルイ家の王族たちや有力諸将たちとともに独自に集会を開き、オグルガイミシュはじめオゴデイ家政権の拒絶を表明した。次にジョチ家とトルイ家が主催するクリルタイを強行し、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名した。オグルガイミシュ側は後継候補としてグユクの息子ホージャ・オグルを望んでおり、他のオゴデイ家やチャガタイ家の王族たちなどはシレムンを推していた。しかし、いずれも幼少でありバトゥらが推すモンケに比べモンゴル王族や諸将の多くの支持は得られないでいた。オグルガイミシュはバトゥらの行動を非難したが、逆に当時オノン川、ケルレン川の河源地域にあったチンギス・ハーンのオルドで開催する二回目のクリルタイへの参加を勧められた。グユクによってチャガタイ家の当主になったイェス・モンケもバトゥを非難したが、バトゥは広大な帝国の統治を年少者に委ねることは不可能であると書簡で論駁し、重ねてクリルタイへの出席を求めた。こうしてバトゥ側とオグルガイミシュなどそれに対抗する諸勢力は帝国各地で支持者の獲得に奔走してさらに2年を費やしたが、これ以上の遅滞がもたらす帝国の混乱を懸念したバトゥはトルイ家と東方三王家とも協議してオグルガイミシュ側とイェス・モンケに最後の説得を行った。ついに体勢が不利と判断した後継候補のシレムンとホージャ・オグルら自身が出席を表明したものの、彼らは約束の日時には指定の場所に姿を表さなかった。ここに至り、モンケを推すバトゥをはじめとするジョチ家、トルイ家、東方三王家はクリルタイを開催し、1251年7月1日、かねて指定されていたチンギス・ハーンの大オルドのあったコデエ・アラルの地のクリルタイにおいて、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第4代皇帝(カアン)として即位した。

このとき、後々の害になるとして先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオグルガイミシュ、さらにはシラムン、イェス・モンケなどオゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑、粛清するという冷酷さを見せた。

モンケの施政から晩年 [編集]
その後は皇帝としての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタンなどに行政府を設置するとともに、官僚のマフムード・ヤラワチ・マスウード・ベク父子を重用して財政政策に重点を置き、財政を潤わせた。さらに次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させた。1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。

しかし、晩年のモンケは有能な次弟、クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心深い一面があった。このためもあって南宋攻略は遅れ、これに苛立ったモンケは1258年、自分自身の実力に恃んで自ら軍を率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻したが、その途上、翌年7月末に重慶を攻略した後、釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日死去した。死後は歴代皇帝たちと同じく起輦谷に葬られた。このモンケの死は、クビライ派による毒殺説も囁かれている。

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